花白先生之墓の碑背に有る
漢文の解読
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どろつくどんと我輩、
 北川新十郎

北川新十郎、
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柳川市曙町 順光寺に在る

 

先生(花白先生)は氏(姓)は北川、諱(イミナと読む。死んだ人の生前の本名のこと)は正晨、花白は号(芸名)で有り、名は新十郎と言った。

亡父は源次正勝、亡母の姓は江崎で有り、祖父(新十郎の)で有る正常の娘で有る。



その先祖は近江の国(滋賀県)の人で有り、和田(にぎた)太郎左衛門尉橘正量(たちばなまさかず)と言い、六百万石受けた田中氏(田中吉政)に仕え従い柳川に来た。



田中氏(田中吉政)が亡くなると(田中吉政との)義を守り、他には仕えず(橘正量には男児が無く)娘に北川正純を婿養子に取り、遂には姓を北川と改めた。(北川正純は橘正量の甥)



先生(北川新十郎)は七代目に当たり、(立花藩に勤め)11歳で初めてお給料を頂いた。

役人の役目を多年に渡り功を重ね(功績に対して)度々ご褒美を頂いた。



天保14年(1843年)の晩冬の頃、位が侍格と成った。(出世した)



嘉永巳酉(1849年)正月二十五日(1月25日)卒(没する)享年七十三歳

在官六十二年で有った。



(生前の花白先生の人物像は)人の為正しく忠誠を厳しく行い、社会の不義、不正に憤って嘆く者の志を励ました。強きを抑え弱きを助けの考えだった。



国史を学び、雅歌(みやびうた、風雅な歌)能を為し、正月二日は藩主の前で披露、御能方に務めた。



赤松某(砲術家に詳しい人)が(柳川に)来た時に、兵学及び散楽(物まね他娯楽的要素の多い芸能)を学んだ。



その後、(参勤交代で江戸に出向く)上京し、その奥を究めた。

幼い頃より、瓶花(花器に生けた生け花)を愛し、未だ若い内から(北川新十郎自身)東山流の創始者と成った。



府下(立花藩)では、物事を率先してこなし、(有名で知らない人は居なかった)又、人物を汎く(広く)愛好し、奨(助け励ました)

凡(総じて)、遠方より来て、宿泊を請う者は、いやな顔をする事無く、客として数日留めた。



筆翰(習字)が最も巧く、百人の弟子が学んだ。

(習字の塾生が百人居た、その、芸名、ニックネームを<花白先生>と言った)



之(北川新十郎)没後三年、多くの受業者(多くの塾生)達は、相談をし、花白先生の石碑を建て、北川新十郎の高致(高尚な心持、最高の極致)を表したい(後世に残したい)事を希望した。



而して(そうして)余(我=石碑の作成者の亀井鉄)の友で有る戸上先生に、余(亀井鉄)の文(碑文)を乞う(石碑にする事を頼んだ)。



余(亀井鉄)昔一(10年前に)其(北川新十郎)の風采(風格)に接し、其(北川新十郎)の譚論(深い見解)を (耳を澄まして興味深く聞いた)事が有る。

未だに (うっとりとして)堪えず(本当にに価値が有った)。

其(北川新十郎)の状(手紙)は潤色(文章に綾を付けるのが巧い)

(言葉使い)諸(書類)を其碑背(花白先生石碑の碑背)に書き記す。



北筑亀井鉄(北筑後の亀井鉄)撰(詩文を作成)

以上



文責

六代目

北川新十郎


平成22年5月5日

 

碑背の漢文提供者:野口彌壽彦氏
亡父橘糾夫の書き残した「花白先生之墓」墓誌解読書を参考にした。
解読するにあたっては、
渡辺悦子さんに多大なる御協力をいただきました。
誠にありがとうごさいました。

 

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