これには六代目も腰を抜かす位驚いた様子だったね、我輩と同じ様に嬉しかったのかな?
我輩は<どろつくどん保存会>の面々が、良くここ迄お調べ頂いたと頭が下がる想いです
たい。
この場をお借りして<どろつくどん保存会>の面々に感謝申し上げますばい。
お墓の周りが俄かに騒がしくなって来て喜んでいるのは、本当は我輩、北川新十郎本人ば
い。
その心を隠しきれないので、今回ノコノコ出てきたとよ。
<どろつくどん>に無知だった寛治は、親友の、久留米で産科婦人科宮原クリニックを開
業している宮原通義君の奥さんが柳川のご出身を思い出し、彼女に単刀直入に<どろつく
どん>の存在を電話で聞いていたね。その奥さんのお返事にも、寛治は改めて驚いていた
様子だったね。
「知ってますわよ、毎年<どろつくどん>の季節になると、父も兄もピーヒョロ、ピーヒ
ョロと仕事そっちのけになりますのよ、幼い頃の良い思い出ですわ。」
新しい発見の入り口に差し掛かった寛治にはワクワク感が蘇ってきたみたいだね、
彼女のお兄さんは、昨年の<どろつくどん実行委員長>をされてたね、お見事な采配だっ
たね。
彼女の実家も柳川の井出の門で川崎耳鼻咽喉科を開業され、今はそのお兄さんが継いでい
られるとばい、気配りが効いた温厚で優しか人ばい。我輩も大変気に入ってるとよ、感謝
しとるばい。
我輩が何故、順光寺に眠っちょると?
何故我輩が柳川の順光寺に眠ってるのかを説明せんとでけんね。
それを説明するには、先ずは亡き父の源次正勝が何故柳川に居た?から入るね。
これには、1600年の関ヶ原の戦いが大いに関連があるとよ。
近江の国での祐念和尚と田中吉政
田中吉政は1548年(天文17年)、近江の国で生まれた。
15歳で織田信長に仕え5千石を賜り、後には豊臣秀吉に仕え、
1596年(慶長元年)11万石を領し、太閤よりイミナを許され吉政と改名した。
その頃より田中吉政は、裕念和尚との付き合いが深くなり、裕念和尚の説く
理念とその姿勢を大変尊敬するまでに至っていた。
裕念和尚とその門徒は、同様に田中吉政を慕っていた。
関ヶ原の戦いと田中吉政と我輩
ここは、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで、石田三成を生捕りにし効を成した
<田中吉政>の話を避けては通れんとよ。
近江の国、柳川、順光寺での、我が大先輩の田中吉政に就いて、触れたいとです。
この大先輩の田中吉政と裕念和尚が、1590年に近江の国で居合わせなかったら、
我輩の柳川での<どろつくどん><花白先生>と、楽しかった人生は無かったネ。
ですから、この御両人に先ずは感謝ばい。
翌年の1601年(慶長6年)その功により、徳川家康によって、筑後の国33万石を賜って
柳川城に居住し、長子の主膳を久留米城に、次男の久兵衛を上妻郡福島の城においた。
それまでの国主だった立花宗茂は、この戦いで豊臣方に付いた為、家康によって
肥後藩主の加藤清正に預けられた。
この時の立花宗茂は13万石だったのに比べ、筑後33万石の支配者と成った
田中吉政の権力は絶大だった。
柳川城の要害が完全で無いので、その規模を拡大し、新たに城池を掘り、
石塁を高くし、五層の天守閣を建てた。
城郭は堅牢、宏壮、輪魚の美大いに備わり、天下の名城と称された。
(然し、残念ながら、1872年正月(明治5年)に天守閣は炎上した。)
裕念和尚が門徒を連れ柳川に
関ヶ原の戦いの数年後、裕念和尚は田中吉政を慕い、我が先祖の北川、伊藤、
園田、井手、の門徒を連れ、はるばる近江の国の神坂村より柳川に来たヨ。
我が父の橘糾夫(五代目)の調べた順光寺の記録によると、門徒は24家族、
その筆頭に我が大先祖の<北川源次>の名が有るとげな、名誉な事たいね。
裕念和尚の、この度肝を抜く大胆な行動に、田中吉政は大感激であった。
早速、坂本小路に<順光寺>を開き、裕念和尚を開山とした。
田中吉政の没
田中吉政は1609年(慶長14年)の2月28日に江戸への参勤の途中、伏見にて没し、
京都の黒谷に葬ったとあるが・・・、
柳川の真勝寺という立派なお墓があるよ、このお寺全体が田中吉政のお墓ヨ。
しかも地下にある墓石は、上から見ると十字架に見えると。
1605年(慶長10年)のイエズス会の記録によると、
キリシタンにも理解をもつ領主だったとあるとばい。
隠れキリシタンだったとね。
立花宗茂の返り咲き
苦節を味わった宗茂は、二第将軍秀忠の命により、柳川藩主に返り咲いた。
1620年(元和6年)順教寺を坂本小路から曙町の現在の地に移し、
<順光寺>と改称した。
ここで、わが先祖の20柱も、改めて静かな眠りについた。
わが人生の縁
振り返ると、近江国で1590年代に、田中吉政と裕念和尚が居合わせなかったら・・、
我輩は、どうなったのだろう?
間違いなく、我輩の柳川での人生は無く、<どろつくどん><花白先生>も、
お江戸での<雅歌><猿楽><東山流>も無かった事になるとよ。
先ずはこの御両人に感謝ヨ。
裕念和尚と共に近江の国より柳川までご一緒された我が先祖にも、
当然ながら感謝だね。
我輩の159年間の静かな眠りを与えてくださった<順光寺>に感謝、
長い間、人知れず順光寺の草むらに横たわってた<花白先生>の碑を見つけ、
立て直してくれた五代目にも感謝だね・・。
そして我輩のこの居場所を見出した<どろつくどん保存会>の面々にも感謝、
そして毎年10月には、我輩を思い出してくれる場面を作ってくれる、
<どろくつどん実行委員長>川崎氏を始めとする関係者の方々にも感謝・・。
我輩は、ほんなこつ幸せモン、これからも、毎年10月には賑やかに思い出して
くれると思うと、嬉かね。
千の風になって、今年も見とるけんね。
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