どろつくどんと我輩、
北川新十郎
 

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二百年ぶりに目を覚ます我輩

我輩は北川新十郎と申します。

我が先祖は、406年前の1624年に近江の国より柳川市に移り住み、曙町の順光寺に、

我が先祖、子孫と共に静かに眠っとります、

眠ってました・・・。

所が、昨年(2007年)の1月頃から、我がお墓の周りが俄かに騒がしくなってきたとよ。

何でか?というと、

その事と、何故?我が先祖は近江の国から柳川に移り住んだかについても、

これから触れていきたいと思っとります。

 

 

<どろつくどん>の紹介

まずは<どろつくどん>を我輩が思いつくままに、ご紹介致しますネ。

182年前の1826年(文政9年)に、時の柳川藩主の立花鑑賢が建立した三柱神社が

御遷座祭を祝うために奉納されたお祭なんだ。

三柱神社の謂れは、柳川藩の祖である戸次道雪と、その養子で初代柳川藩の藩主、

立花宗茂、その御妃で雪道の娘千代姫の三神が祀られてる為なんだね。

ここで、話は時空を超えて逸れますが、三柱神社不知火型の本家本元と言う事で、

昨年12月には大相撲の横綱朝青龍が、土俵入りを披露してたヨ。

我輩は、新しい歴史を知って、これまた嬉しかったネ、

千の風に成って見たヨ。


話を又、元に戻しますネ。

我輩は、当時このお祭を<外町衆>と考案、実現させた中心人物といわれてますと。

どの様にして実現させたか?については、後ほど申しあげますたい。


<どろつくどん>は、五穀豊穣、天下泰平、家内安全を願っての豪華絢爛で品性のある

庶民的、歴史的な郷土の祭りとして後世に受け継がれてるとよ。

山車は5基、山車の上舞いと、囃子と笛、太鼓を披露しながら、三柱神社を出発し、

三柱神社、日吉神社、八剣神社に奉納するとよ。

我輩も昨年は160年ぶりに目を覚まし、我輩の眠っている<順光寺>より

千の風になって確り受け継がれている。
 

 

 

 

<どろつくどん>を見たネ、、嬉しかったネ。

頑なに真面目に受け継いでくれる<郷土柳川の人々>には、感動ばい。


<どろつくどん>と我輩

1787年(天明7年)我輩は11歳で立花藩に仕えたと、晩年には武士格を与えられ、

今で言う官僚ですたい、在任62年は楽しかったヨ。

我輩には在任中は参勤交代で江戸に出向くのが、若い頃の最大の楽しみだったと。

江戸では、立花藩の上屋敷が浅草の下谷にある浅草寺の近くにあったので、

雅歌、猿楽、瓶花の東山流は本家本元、習字も極めたとよ。

この世界は、決して嫌いではなかったネ。

<どろつくどん>の打ち上げや、晩年を習字の先生<花白先生>で送れたのも、

江戸で身につけた芸のお陰と思うネ、立花藩に感謝たい。


我輩の紹介を自分で語るのは照れくさいけん、順光寺にある<花白先生>の碑背

にある碑文を引用するたい。

それによると、為人(ひととなり)は、正義感、忠誠心に富み、強きを抑え、

弱きを助けるを常とした、と有るネ。

国史を学び雅歌を嗜んだ、兵学と散楽(猿学)をも勉強したともあるばい、

これを江戸で極めた。

散楽とは、平安時代から室町時代に流行した滑稽を中心とした日本の芸能たい。

習字も極めて晩年は<外町>で習字の塾を開き、<花白先生>として老若男女に

慕われたとあるばい、生徒は百人ほどいたとあるね。


千の風に成って我が住まいを見に行ったばい

昨年<どろつくどん>見物のついでに・・

外町にあった我が住まいを見に行ったとよ。

周りの佇まいはそげん変わっとらんばってん、保加町(外町でなく)公民館になっちょっ

たばい。

小奇麗な公民館で、これでよかとと思ったネ、これも柳川市に感謝ネ。


<どろつくどん>の立ち上げ

何とかこの祭りを、この外町より立ち上げたいと思う<燃える外町衆>に絆され、

遂には我輩も若かったし、これに一肌脱いだとよ。

ここが、我輩と<どろつくどん>の最初の接点たい、スタートばい。

これには、江戸での貴重な経験もあるし、我輩は燃えたネ。


1826年(文政10年)1月

我輩と幼馴染の弥永久右ェ門は、先ずは金策に走り、燃えちょるけん、

行動は早かったヨ。

十分に金も集まったので、この<燃える外町衆>を連れて、はるばる博多から

船で瀬戸内海を渡り大阪まで行き、大阪の<天神祭り>特に音曲を、

京都では<京都祇園会>を、江戸では<江戸の神田ばやし>の勉強に出向き、

2ヶ月かけ帰柳したと。

一杯勉強したとよ、これを参考に<どろつくどん>を考案したと、楽しかったね。

特に、山車の頭上に突き出す鉾、山車の周りを化粧するダンダラ幕には気を配り、

山車の上の踊り、笛、太鼓の稽古、夜祭には町内の気持ちを一つにまとめて、

10月迄には時間が足りずに<燃える外町衆>と連日夜遅くまで準備、稽古に励んだと

よ。

この甲斐もあり、無事にこの年の10月に最初の<どろつくどん>が始まったとよ、

その後の我輩は、近所の子供たちや親戚を集めて習字の先生をしたばい。

その名を<花白先生>と言うて、老若男女に慕われとったネ。


我輩は静かに順光寺での眠りについた

我輩は159年前の1849年(嘉永2年)に73歳で、北川喜三太と門弟中に看取られなが

ら、この順光寺で静かな眠りに着いと。

この一年前の72歳の時に、未だ元気だった頃の、我輩が羽織袴に刀を挿した姿を描いた

掛け軸が、我が子孫の寛治の所にあるネ。

それには、我輩が自書した歌を掛け軸に遺したけん、改めてそれを披露するたい。

4つの時
折得てすさぶ
花の枝に
とめし心も
香しきかな



第二次戦争の敗戦と我が子孫の橘糾夫と順光寺

我が子孫の橘糾夫(我が甥の孫、1884年明治17年4月17日生まれ、

1978年昭和53年から(我輩と同じ順光寺で眠って居ります)は、六十年まえに

多大な犠牲を払った決して二度と起こしてはならない第二次世界大戦の敗戦を

満州の大連で迎え(それ迄は、三井物産大連支店長として大変羽振りの良い生活を

送っていたネ)、昭和22年3月27日に引揚者として、妻の済子、三女の浦子、

長男の寛治を連れ、長崎の佐世保港に上陸したんだ。

糾夫は、大連のお墓に眠って居た六柱の遺骨(彼の実父の西矢十郎、実母の西チセ、

弟の西廣、前妻の橘とみ、長女の橘みち、長男の橘源太郎)を持ち帰った。

順光寺に眠っている我輩と我が先祖も、敗戦で引き上げと言う悪条件の中で、

大連の墓を掘り起こし、六柱の遺骨を順光寺に持ち帰った橘糾夫を高く評価しとるとよ。

ただ頭が下がるネ、糾夫は偉かネ、華やかな生活だっただけに、心中忍ばれるネ、

前置きが長くて御免ね、そろそろ最初の核心に迫るヨ。

 



北川新十郎(花白先生) 左下の白い墓石が橘家の墓

 

<花白先生>の墓石発見と我輩

無事帰国した糾夫は、昭和25年頃から順光寺に先代の住職を足繁く訪れて、

持ち帰った六柱の納骨の為に、順光寺と我輩と我が先祖に就いての勉強が始まったとよ。

我が墓地の整地に入った糾夫は、昭和35年11月6日、雑草の中に横たわってる

<花白先生>の墓石(素材は大理石、高さ四尺、幅二尺)を発見したと。

同年12月7日には<花白先生>の建碑作業終了、

同年12月20日には持ち帰った六柱の納骨終了、めでたしめでたしネ。


所で・・・、又もや、めでたし、めでたしばい。

我輩にとって<花白先生>の墓石の発見は、大きな出来事だったとよ。

それはそのはずばい。

<花白先生>とは、我輩の事ばい、北川新十郎の事たい、

我がお墓の周りが俄かに騒がしくなってきた理由は、ここにあるとよ。

墓石の裏側には漢文で我輩の経歴を、身に余るお褒めの言葉で美しく記されて居ります。

それを現代文に近く、糾夫が注釈* してるね、後から寛治に紹介させるばい。

(* どろつくどん体験記2008をご覧下さい )


余談だが、寛治が幼い頃より両親の糾夫と済子に手を引かれ、何も分からずに順光寺の

お墓参りに来たのも、順光寺の傍らにある鰻の蒸篭蒸しに有り付きたかった様だね。

我輩<花白先生>への認識は、糾夫も近江の国から来た習字の先生で、その右にある

二十柱の墓石はその門下生という程度で、何故我が先祖が近江の国から順光寺に来たか

とか、<どろつくどん>の存在すら知って無かったね。

今の何故についても、後からゆっくりお話するね、読者に失礼だもんね。

更に驚いたのは、今の順光寺をお守りされている御住職ご夫妻も、そうらしいね。

<どろつくどん>の存在は知っていたが、<花白先生>が我輩北川新十郎とは・・・。


<どろつくどん保存会>と我輩

<どろつくどん保存会>の面々も昨年、初めてこの事をお知りになったんだネ。

昨年1月に<どろつくどん保存会>の面々五人が、どろつくどんの半被姿で

橘家累代の墓室の上に建造された<花白先生の碑>に御猪口と花を供えて

手を合わせて供養されてる写真が、順光寺の御住職さんより六代目に届いたんだね。

達筆で書かれた住職さんの短い手紙付きだったけど、六代目には橘の墓に、

身も知らぬ半被姿の面々が神妙に供養されてる姿に、初めて、何だろう?気持ち悪い、

誰か本当の事を教えて欲しいと思ったらしいネ。

六代目の我輩初代北川新十郎探索の旅の全てはここから始まった見たいだね、

本当の事を知っている我輩には、驚くやら、感動するやら、嬉しかったね。

お手紙を六代目に送って暮れた<順光寺>さんに感謝バイ!

順光寺から届いた手紙、写真
(2007年、2月中旬)

 

 

 

これには六代目も腰を抜かす位驚いた様子だったね、我輩と同じ様に嬉しかったのかな?

我輩は<どろつくどん保存会>の面々が、良くここ迄お調べ頂いたと頭が下がる想いです

たい。

この場をお借りして<どろつくどん保存会>の面々に感謝申し上げますばい。


お墓の周りが俄かに騒がしくなって来て喜んでいるのは、本当は我輩、北川新十郎本人ば

い。

その心を隠しきれないので、今回ノコノコ出てきたとよ。


<どろつくどん>に無知だった寛治は、親友の、久留米で産科婦人科宮原クリニックを開

業している宮原通義君の奥さんが柳川のご出身を思い出し、彼女に単刀直入に<どろつく

どん>の存在を電話で聞いていたね。その奥さんのお返事にも、寛治は改めて驚いていた

様子だったね。

「知ってますわよ、毎年<どろつくどん>の季節になると、父も兄もピーヒョロ、ピーヒ

ョロと仕事そっちのけになりますのよ、幼い頃の良い思い出ですわ。」

新しい発見の入り口に差し掛かった寛治にはワクワク感が蘇ってきたみたいだね、

彼女のお兄さんは、昨年の<どろつくどん実行委員長>をされてたね、お見事な采配だっ

たね。


彼女の実家も柳川の井出の門で川崎耳鼻咽喉科を開業され、今はそのお兄さんが継いでい

られるとばい、気配りが効いた温厚で優しか人ばい。我輩も大変気に入ってるとよ、感謝

しとるばい。


我輩が何故、順光寺に眠っちょると?

何故我輩が柳川の順光寺に眠ってるのかを説明せんとでけんね。

それを説明するには、先ずは亡き父の源次正勝が何故柳川に居た?から入るね。

これには、1600年の関ヶ原の戦いが大いに関連があるとよ。


近江の国での祐念和尚と田中吉政

田中吉政は1548年(天文17年)、近江の国で生まれた。

15歳で織田信長に仕え5千石を賜り、後には豊臣秀吉に仕え、

1596年(慶長元年)11万石を領し、太閤よりイミナを許され吉政と改名した。

その頃より田中吉政は、裕念和尚との付き合いが深くなり、裕念和尚の説く

理念とその姿勢を大変尊敬するまでに至っていた。

裕念和尚とその門徒は、同様に田中吉政を慕っていた。


関ヶ原の戦いと田中吉政と我輩

ここは、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで、石田三成を生捕りにし効を成した

<田中吉政>の話を避けては通れんとよ。

近江の国、柳川、順光寺での、我が大先輩の田中吉政に就いて、触れたいとです。

この大先輩の田中吉政と裕念和尚が、1590年に近江の国で居合わせなかったら、

我輩の柳川での<どろつくどん><花白先生>と、楽しかった人生は無かったネ。

ですから、この御両人に先ずは感謝ばい。


翌年の1601年(慶長6年)その功により、徳川家康によって、筑後の国33万石を賜って

柳川城に居住し、長子の主膳を久留米城に、次男の久兵衛を上妻郡福島の城においた。

それまでの国主だった立花宗茂は、この戦いで豊臣方に付いた為、家康によって

肥後藩主の加藤清正に預けられた。

この時の立花宗茂は13万石だったのに比べ、筑後33万石の支配者と成った

田中吉政の権力は絶大だった。

柳川城の要害が完全で無いので、その規模を拡大し、新たに城池を掘り、

石塁を高くし、五層の天守閣を建てた。

城郭は堅牢、宏壮、輪魚の美大いに備わり、天下の名城と称された。

(然し、残念ながら、1872年正月(明治5年)に天守閣は炎上した。)


裕念和尚が門徒を連れ柳川に

関ヶ原の戦いの数年後、裕念和尚は田中吉政を慕い、我が先祖の北川、伊藤、

園田、井手、の門徒を連れ、はるばる近江の国の神坂村より柳川に来たヨ。

我がの橘糾夫(五代目)の調べた順光寺の記録によると、門徒は24家族、

その筆頭に我が大先祖の<北川源次>の名が有るとげな、名誉な事たいね。

裕念和尚の、この度肝を抜く大胆な行動に、田中吉政は大感激であった。

早速、坂本小路に<順光寺>を開き、裕念和尚を開山とした。


田中吉政の没

田中吉政は1609年(慶長14年)の2月28日に江戸への参勤の途中、伏見にて没し、

京都の黒谷に葬ったとあるが・・・、

柳川の真勝寺という立派なお墓があるよ、このお寺全体が田中吉政のお墓ヨ。

しかも地下にある墓石は、上から見ると十字架に見えると。

1605年(慶長10年)のイエズス会の記録によると、

キリシタンにも理解をもつ領主だったとあるとばい。

隠れキリシタンだったとね。


立花宗茂の返り咲き

苦節を味わった宗茂は、二第将軍秀忠の命により、柳川藩主に返り咲いた。

1620年(元和6年)順教寺を坂本小路から曙町の現在の地に移し、

<順光寺>と改称した。

ここで、わが先祖の20柱も、改めて静かな眠りについた。


わが人生の縁

振り返ると、近江国で1590年代に、田中吉政と裕念和尚が居合わせなかったら・・、

我輩は、どうなったのだろう?

間違いなく、我輩の柳川での人生は無く、<どろつくどん><花白先生>も、

お江戸での<雅歌><猿楽><東山流>も無かった事になるとよ。

先ずはこの御両人に感謝ヨ。

裕念和尚と共に近江の国より柳川までご一緒された我が先祖にも、

当然ながら感謝だね。

我輩の159年間の静かな眠りを与えてくださった<順光寺>に感謝、

長い間、人知れず順光寺の草むらに横たわってた<花白先生>の碑を見つけ、

立て直してくれた五代目にも感謝だね・・。

そして我輩のこの居場所を見出した<どろつくどん保存会>の面々にも感謝、

そして毎年10月には、我輩を思い出してくれる場面を作ってくれる、

<どろくつどん実行委員長>川崎氏を始めとする関係者の方々にも感謝・・。

我輩は、ほんなこつ幸せモン、これからも、毎年10月には賑やかに思い出して

くれると思うと、嬉かね。


千の風になって、今年も見とるけんね。

 

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