近江の国神坂村~筑後の国柳川迄400有余年の点と線

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1543年 鹿児島では 種子島に鉄砲伝来。  コペルニクス没。

 

 1546年 姫路では 黒田官兵衛姫路に生まれる。

 

1548年 近江の国では 田中吉政、近江の国に生まれる。

 

1549年 鹿児島では フランシスコザビエル、鹿児島に渡来。

 

1560年 越後の国では 直江兼続公の誕生。

 

1561年 長崎では ポルトガル船来航。

 

1564年 ミケランジェロ没

 

1567年 豊後の国、大分県では 高橋紹運(じょううん)の長子、戸次鑑

      連(べっきあきら)道雪の養子立花宗茂、筧城で誕生、その後、

      朝鮮征伐に大功を建て、初代藩主立花宗茂と成る。

 

1582年 京都では 本能寺の変、織田信長没。

 

1590年 大阪では 豊臣秀吉全国統一

      近江の国では この頃から田中吉政は、近江の国の神坂村に有る

      順教寺の裕念和尚と互いに尊敬しあう親しい仲と成る。

      この二人関係無しでは、北川新十郎も語れないし「どろつくどん」

      も語れない。

 

その訳を次に記します。

 

1602年の裕念和尚の門徒を連れての来柳した。

1776年の北川新十郎の誕生。

1826年の「どろつくどん」誕生と続く。

2007年の親友で有る産科婦人科宮原クリニック院長

宮原通義君の奥様は幼い頃からの

柳川育ちを思い出し、電話で聞いてみましたら、、、

「どろつくどん」の存在に、立ち上がるのに

ためらいがちだった六代目の背中を押すが如く

明快に、「知ってますわよ、祭りが近くなると

父も兄も仕事そっちのけでピーヒョロ、ピーヒョロ

でした。幼い頃の良い思い出ですわ」

彼女の想い出と共に、証明された事が

この一連の近江の国から始まる歴史上のドラマを

追及、勉強に情熱を傾けるスタート時点で有りました。

そして六代目と繋がる正しくドラマと思う。

以上の事は、各年代毎の項目と、ホームページの

「北川新十郎」で記してますので、ご参照下さい。

それでは

このドラマを紐解きます。

 

 

1598年 京都では 豊臣秀吉、伏見城で没。

 

1600年 関ヶ原では 関ヶ原の戦で田中吉政は、石田三成を生け捕りにし

      東軍徳川家康に差し出す。

      柳川では 立花宗茂は、関ヶ原の戦いで西軍に就いた為

      家康に謝罪、改易される。

 

1601年 柳川では 田中吉政は、関ヶ原の戦いの功績により

      家康に、筑後の国32万5千石を賜る。柳川城に居住。

      加藤清正は、西軍立花宗茂の柳川城を開城。

       

      熊本では、立花宗茂は、肥後の藩主加藤清正に

      これより20年間預けられる。

 

      近江の裕念和尚は、門徒24家族を連れ

      近江の国神坂村より田中吉政を訪ね来柳。

      その筆頭に北川源次(初代北川新十郎の父)

      の名有りと順光寺の記録に有る。

      「花白先生乃墓」の右側墓地に北川新十郎とも

      20柱の墓が有る。田中吉政は大感激し

      柳川の坂本小路に<順教寺>を開山した。

      

1609年 柳川では 田中吉政没、市内の真勝寺が菩提寺。地下に有る墓石は、

      立って真上から見ると、十字架の形をした墓石。墓の真上に大伽

      藍を設け丁度真上に本尊を安置されている。

 

      長崎、平戸ではオランダ人の通商許可が発行。

 

1610年 京都では長谷川等伯没。 ガリレオ木星の衛星を発見。

 

1611年 肥後の国、熊本では加藤清正没。

 

1613年 江戸では徳川家康のキリシタン禁令。

 

1614年 大阪では大阪冬の陣。

 

1615年 大阪夏の陣。大阪城落城。

 

1616年 江戸では徳川家康没。

 

1617年 江戸吉原遊郭の開設許可。

      日光東照宮社殿竣工。

 

1618年 柳川では 北川四郎兵衛没(諱、橘正量、

      田中吉政に属し軍功績をのこす。先祖は近江の国の人、

      和田(にぎた)太郎左衛門尉と言い田中吉政に仕え従った。田中

      吉政没後、彼との義を守り、男児が居なかった為、娘に北川正純

      を婿養子に取り、その娘を嫁に取り姓を北川と改めた。北川正純

      は、橘正量の甥で有る。

 

      田中吉政没後、四男田中1620年 忠政が二代目藩主と成る。

 

      1614年の大阪冬の陣に遅参。徳川将軍家の怒りを受け、国を除

      かれた。(田中家無嗣断絶)

 

1620年 立花宗茂は、十万九千二百石の柳川藩主に復活。順教寺は

      坂本小路から現在地の曙町に移し名を順光寺と改めた。

 

1622年 江戸では上屋敷の普請開始(元清願時)東上野一丁目辺り。

 

1629年 下屋敷普請開始 入谷二丁目辺り。

 

1631年 立花宗茂 上屋敷を出て下屋敷に居住。

 

1633年 鎖国令(三代将軍家光)16年間続く。

 

1635年 参勤交代確立。

 

1636年 仙台では 伊達政宗没。

 

1637年 島原では天草島原の乱

 

1638年 柳川では 北川喜兵衛没(諱は橘正純、和田(にぎた)太郎左衛門の養子)

      島原では 立花宗茂は一揆勢のこもる原城討伐命令、陥落。

      江戸では 徳川家光は下屋敷の立花宗茂を訪れる。

 

1639年 徳川家光はポルトガル人追放を決定。

 

1641年 徳川家光は福岡藩主黒田忠之、佐賀藩主鍋島勝茂に長崎御番を命じる。

      長崎では日本唯一の国際都市と成る。、オランダ通詞

      唐通詞が置かれ、異国文化、蘭学が広がる。

 

1642年 江戸では 立花宗茂没、下谷広徳寺に葬られる。

 

1643年 佐賀鍋島藩では坂田柿右衛門は、赤絵焼きに成功。

 

1656年 柳川では 北川正利没(北川正量の実子)

 

1666年 ニュートンが万有引力を発見。

 

1703年 赤穂浪士の討ち入り。

 

1706年 フランクリン誕生。

 

1708年 屋久島では イタリアの宣教師 シドッチ氏、日本に潜入。

 

1722年 柳川では 北川四郎衛門(諱橘正喜)没 北川宗次が順光寺に埋葬。

 

1725年 江戸では 新井白石没。

 

1745年 千葉では  伊能忠敬生まれる。

 

1750年 バッハ没。

 

1756年 モーツアルト誕生。

 

1767年 江戸では 田沼意次時代。雷電為衛門生まれる。

 

1769年 柳川では 八代藩主立花鑑寿(あきひさ)生まれる。

 

1770年 ベート―ベン生まれる。

 

1774年 江戸では 杉田玄白の解体新書。

 

1776年 柳川では 米の独立宣言。初代北川新十郎保加町で誕生

      墓碑の背文には

 

     「姓は北川、諱は正晨、花白はその號なり

      亡父は源次正勝、亡母は祖父正常の娘

      先祖は近江の国の人

      和田(にぎた)太郎左衛門尉の橘正量で有り

      柳川に来て田中吉政に仕えた。

      北川正純の娘を妻にし姓を北川と改む」と有る。

 

 

1778年 七代藩主立花鑑通(あきなお)時代 ルソー没

      藩政改革を進め武芸を奨励

 

1781年 北川宗次(諱橘成豊)没

 

1783年 スタンダ―ル生まれる。

 

1787年 七代藩主立花鑑通時代

      北川新十郎は立花藩に仕える。

      

      江戸では 松平定信の寛政の改革。

 

1789年 柳川では 九代藩主、立花鑑賢(あきかた)生まれる。

      ワシントン初代米国大統領就任。

      フランス革命。

 

1791年 モーツアルト没。

 

1792年 北海道では 露人ラクスマンが通商を求め根室に来航。

 

1793年 マリー、アントワネット没。

 

1794年 江戸では 写楽の浮世絵完成。松尾芭蕉没。

 

1798年 江戸では 本居宣長の「古事記伝」が完成.

 

1800年 北海道では 伊能忠敬、蝦夷地を測量。

 

1804年 長崎では ナポレオン皇帝即位。ロシア使節ニコライ長崎に来航。

 

1805年 アンデルセン誕生。

 

1806年 江戸では 喜多川歌麿没。

 

1808年 長崎では フェートン号、長崎に来航。

      北海道では間宮林蔵、樺太を探検。

 

1809年 鹿児島では 島津斉彬誕生。

      米国では リンカーン誕生。

 

1810年 ショパン誕生。

 

1818年 江戸では 伊能忠敬没。

 

1823年 柳川では 十代藩主、立花鑑広(あきひろ)誕生。

      塩塚久吉(雲龍型の祖第十代横綱雲龍久吉)誕生。

 

1824年 九代藩主、立花鑑賢藩校伝習館創立。

      江戸では 徳川家定誕生。

 

1825年 柳川では 北川源次(諱橘正勝、花白先生北川新十郎の父)

      北川新十郎、順光寺に埋葬。

      江戸では 岩倉具視(明治維新の元勲)誕生

      幕府は異国船打ち払い令を撤廃。

 

      琉球では 琉球海域に異国船が頻繁に到来。

 

1826年 柳川では どろつくどん誕生  

      九代藩主立花鑑賢(あきかた)公によって造営された三柱神社の

      御遷座祭を祝う為に奉納された祭り。北川新十郎と幼馴染の弥永

      久右衛門とで大坂の天神祭り、京都の京都祇園会、江戸の神田囃

      しを勉強に出向き「どろつくどん」を考案した。

 

      三柱神社とは初代藩主立花宗茂と妻の誾千代(ぎんちよ)その父

      戸次道雪(べっきどうせつ)を祀った神社。

      ベートーベン没。

      クラーク博士生まれる。

 

1827年 柳川では 十一代藩主、立花鑑備(あきのぶ)誕生。 

 

1828年 鹿児島では 西郷隆盛誕生。

      江戸では小林一茶没。

      シューベルト没。

 

1829年 柳川では 十二代藩主、立花鑑寛(あきとも)誕生。

 

1830年 佐賀藩では 高島流砲術が佐賀藩に伝わる最初の鉄道開設。

 

1831年 越後の国では 良寛没。

 

1832年 広島では 頼山陽没

      ゲーテ没。

 

1835年 鹿児島では 篤姫生まれる。

      高知では 坂本龍馬誕生

      米でモールス電信機発明。

 

1840年 チャイコフスキー誕生。

 

1841年 山口では 初代内閣総理大臣、伊藤博文誕生。

      江戸では 徳川家斉没。ジョン万次郎14歳の時米国に漂着後、

      居住。天保の改革。

 

1843年 柳川では 北川新十郎に武士格を与えられる。

      外町の北川新十郎(北川喜三太三男)誕生。

 

1844年 間宮林蔵没。 モールス符号を実用化。

      江戸では オランダ国王、開国を促す

      モールス符号を実用化。

        

1846年 柳川では 立花鑑寛(あきとも)十二代藩主と成る。

      和歌や書に堪能、能楽にも深い関心

      風雅を好む人物

      北川新十郎に影響を与えた。

      浦賀では

      黒舟、浦賀に現れる。

 

1848年 柳川では 北川新十郎の姿絵掛け軸に(六代目所蔵)

      辞世の句を書き遺す。

 

      「四つ時折得てすさぶ花の枝に

      とめし心も香しきかな」

 

      *この句を解釈致しますと

     (春の風が吹きすさぶ午前11時頃の事

      その影響で、突然梅の木が折れて、そこから漂う

      香りが強く心を奪われる様だ)

 

      鹿児島では 東郷平八郎誕生。

      江戸では 滝沢馬琴没。

      長州では 吉田松陰、独立師範と成る

      フランス2月革命。

      スチーブンソン没。

      米、婦人参政権運動始まる。

 

1849年 柳川では 花白先生北川新十郎没。

      北川喜三太と門弟中で順光寺に埋葬。

      長州では 乃木秀典(乃木将軍)誕生。

      江戸では 葛飾北斎没。初の種痘実施。

      ショパン没。

 

1850年 柳川では 北川喜三太没。(外町の北川新十郎、順光寺に埋葬)

      佐賀藩では 反射望遠鏡築造。

 

1852年 土佐藩では ジョン万次郎、米国より帰国。

 

1853年 浦賀では 米ペリー艦隊黒舟4隻で浦賀に来航。

      長崎では 露プチャ―チンン艦隊4隻、長崎に来航。

 

1854年 浦賀では 再びペリー艦隊、江戸港頭に来航。

      江戸では 日米和親条約締結、露、英、蘭とも締結。

      鎖国体制崩壊、日本開国。

 

1856年 柳川では 北川喜三太の三男外町の北川新十郎

      姓を橘と改む、

      外町の橘新十郎と成る。

 

1858年 函館では 日露修好条約締結、函館に領事館。 ペリー没。

      ニューヨーク聖公会墓地埋葬葬)

 

1859年 江戸では 吉田松陰処刑される。

 

1861年 柳川では 雲竜型の祖、雲龍久吉が第十代横綱と成り雲竜型土俵入り

      作った。

      函館では ロシア正教宣教師ニコライ25歳で来日 函館に領事

      館設立。

 

1867年 京都では 坂本竜馬、暗殺される。

 

1868年 江戸では 明治維新。

 

1872年 柳川では 柳川城焼失

 

1873年 西熊蔵没(諱、橘正脩、北川四郎兵衛の二男

      西矢十郎の父、西矢十郎埋葬  (三代目北川新十郎に当る)

 

1877年 鹿児島では 西南戦争勃発。

 

1878年 西郷隆盛没。

 

1881年 ドストエフスキー没。

 

1884年 柳川では 西糾夫(西矢十郎の二男、五代目北川新十郎、

      六代目北川新十郎橘寛治の実父)外町で誕生。

 

1890年 柳川では 外町の橘新十郎没。(墓三池辻、寺名解読出来ず)

      第十代横綱雲龍久吉没。

 

1895年 北川四郎兵衛(諱橘正量)没。(初代北川新十郎から数えて

      三番目の弟、二代目北川新十郎に当る次男が西熊蔵)

 

1897年 ブラームス没。

 

1898年 西糾夫から橘糾夫と改姓。

 

1928年 西矢十郎没(四代目北川新十郎に当る。橘糾夫、順光寺に埋葬)

 

1943年 大連では 橘寛冶誕生。

      父糾夫(三井物産大連支店長)母済子の長男、六代目北川新十郎

 

1945年 太平洋戦争終戦。

 

1947年 佐世保では 橘寛治(六代目北川新十郎)大連より

      両親、姉と佐世保に引き揚げ。

 

1960年 柳川では 橘糾夫(五代目北川新十郎に当る)

      順光寺を聖地中に花白先生の石碑を発見。建碑終了。

     「花白先生之墓」「橘家累代の墓」として現存。

 

1978年 橘糾夫(五代目北川新十郎)没

      橘寛治(六代目北川新十郎)順光寺に埋葬。

 

2007年 初代北川新十郎の命日(1月25日)に

     「どろつくどん保存会の面々」が 花先生(北川新十郎の號)の墓

      碑に手を合わせ供養されてる写真が順光寺より手紙を添えて届いた。

      北川新十郎と花白先生と「どろつくどん」の存在との関連性に無知

      だった 六代目には初めての体験で、落ち着かなく成って来た。

 

      そこで、冒頭でご紹介致しました宮原君夫人の出現です。これ以来

      2007年~2013年の間に、「どろつくどん」には保加町行政

      区長の成清三文様と上町区長川崎洋様(宮原君婦人の実兄)他の<

      どろつくどん>面々の方々には、お世話に成りながら、欠かさず毎

      年参加させて頂いております。

2016年 保加町行政区長は椛島昭治様に代わられております。

 

結び

 

整理致しますと

北川四郎衛門(諱正豊、二代目)の子が北川熊蔵(諱正脩、三代目)

その後姓を西と改め、西熊蔵と成る、西熊蔵の子が西矢十郎(諱なし、四代目)

その西矢十郎の次男が西糾夫(諱なし、五代目)その後姓を橘と改め、その長男

が橘寛治六代目北川新十郎。

 

参考にした資料として

 

橘糾夫遺筆の

 

P50,51順光寺所蔵の宗門御改御帳

 

P57,58,59,61 ,62,63    墓石帳抄録

 

P64,65,66

 

P,68,69,70花白先生墓誌、

 

P,71,72,73]代々伝わる巻物の正量、正利、正純,,吉政の説明

 

P81,82,83,84順光寺の説明(前住職福永法)

 

P124,125父系享年、諱調べ、以上と

 

柳川市、熊本市に問い合わせに依る除籍謄本参照。

HPの初代「北川新十郎」の先祖から現在迄の点と線も

是非とも御参照下さい。

 

未だ至らぬ点が多々有ると存じますが

取り敢えず終了です。

至らぬ点を御指摘頂ければ、有り難いです。

 

文責

六代目北川新十郎

寛治

 

平成26年11月24日

 

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