昨年に続き二度目の<どろつくどん>の体験記
我輩は順光寺の静かな眠りから、一年振りに再び目を覚ましたトヨ。
昨年も楽しかったバイ!
何故か?と言うと、<どろつくどん>開催日3日前の2008年10月9日
に、九州一の地方紙である西日本新聞筑後版の朝刊に、我輩の事と
柏在住の子孫の六代目が紹介されたとよ!
その日の朝、突然、親友の宮原クリニックの奥様から、手賀沼散歩中
の六代目の携帯に、
「寛治さんが今朝の西日本新聞朝刊に載ってますよ!FAXします。」
と電話が有り、FAXには「県無形文化財<どろつくどん>北川新十郎の
墓判明、子孫が柳川訪問」 と有って、思いもよらぬ新聞報道は、我輩も
嬉しかったバイ!
平成の時代に、江戸時代から時空を超えて 、九州一の地方紙に載った
ケンネ。
「北川新十郎の墓判明」
その記事の中で、保加町区長の成清三文さんは
「保加町から始まった伝統を大切にしていきたい」
と話されている。
2008年10月12日の<有明新報>の朝刊でも
「若い者達に引継ぎ、大事にしていきたい」
と話されている。
こんなに大切に扱われ、永遠に引き継がれると思うと、
涙が出るほど有り難い話バイ!感動バイ!
<どろつくどん保存会>の面々、柳川市民の方々には、
感謝の気持ちで、頭が下がる思いバイ!
新たなサプライズが起きた。
今回も我輩と子孫の橘家の面々が静かに眠ってる曙町の<順光寺>の
お墓から抜け出して、その日は千の風に成って、江戸時代の柳川を思い
浮かべながら、平成の<どろつくどん>バ、ゆっくりと楽しむ腹積もりだっ
たとよ。
所がタイ!!
やっぱり、これでもか!と言うサプライズが有ったとバイ!
それは、開催日前日の2008年10月11日の朝。
保存会の保加町の有志面々が<順光寺>に集結し、半被姿で我が碑に
参拝し、笛や太鼓で、ピーヒョロ、ドンドンを始めたトヨ!
我輩の知る限り、<順光寺>始まって以来の出来事バイ!
そこに子孫の六代目も、半被姿でいつの間にか!
<どろつくどん>保存会の先頭に立って、
我が墓碑に、手を合わせよったバイ!
これには、我輩も一緒にお墓に眠って居られる橘家の面々も、
この賑やかさに、思わず目を覚ましたり、きっとびっくりバイ!
この事は翌日には、筑後地方唯一の地方紙の<有明新報>に
後日には<柳川市の広報>に、六代目のコメントと写真入りで
大きく取り上げられ*、地元紙に認知されて、我輩も嬉しかったバイ!
六代目も感動した様子だったよ!
~*詳しくは「新聞記事2008」をご覧下さい。~
六代目、柳川藩跡を散策、上屋敷跡
お祭り好きな我輩のDNAを引き継いだ六代目は、我輩が参勤交代で遊学
した江戸の町を、平成の地名で言うと、東上野、上野、御徒町、入谷、浅草
あたりを、特に熱心に散策してるね。
我輩の当時の江戸での様子を、六代目は余程知りたいらしいね。
東上野一丁目、二丁目には、立花藩初代藩主、立花宗茂の上屋敷跡が
有り、我輩が参勤交代で良く通った所バイ。
此処は江戸城にも近く、他藩に比べ広大な敷地を与えれ、立花宗重は
徳川家康に大変重宝がられていたという事だね。
六代目は、東上野一丁目で御茶屋さんを営んで居られる岡田社長(偶然
六代目と同じ年ゲナ)の協力を受けて、上屋敷跡の<太郎稲荷>(現在も
地元の人達に丁寧に保管、奉られている、因みに下屋敷にも有る)の見学
をしたり、上野、入谷、浅草を視野に入れた地図(治水跡含む)の説明を受
けたり、江戸時代の物は何も無く、ビル群だが、一緒に平成の上屋敷跡を
歩いて頂いたり、勉強したり、飲んだりしよるバイ!
我輩も千の風に成って六代目と一緒に江戸の町を散策しよるけど、
上野寛永寺、御徒町、浅草、入谷、吉原とか、地名だけは良く判る
バッテン、町の様子はイッチョン分からんバイ!
下屋敷跡
下屋敷跡は、平成の地名で言うと入谷二丁目(地下鉄日比谷線入谷駅)。
我輩が参勤交代では良く宿泊に利用した所タイ!
上屋敷と同じ様に<太郎稲荷>が丁寧に奉られて居るバイ。
両<太郎稲荷>には共通して何時もごみ一つ無く、石畳には水を打って
有り、大切に管理されてる様子が伺えるバイ!
入谷二丁目でお酒屋さんを営んで居られる細田社長(六代目より年輩、
70歳前半?)は、その頃の江戸の町、特に下屋敷の様子を勉強してたね。
彼に依ると、この界隈は地面が周りより低く、近くには千束と言う地名が
有るが、稲を刈った後に束ねた藁が一杯並んでいる様子が地名に成ったと
か!
上屋敷との違いは、いかにも下屋敷だね。太郎稲荷と、その裏の田んぼの
奥の方には、かの有名な<吉原>が写ってる写真を見せて貰ってたね。
六代目は細田社長から紹介された近くの<台東区図書館>でも、江戸時
代のこの界隈の勉強をしてたね。
図書館の一角には<吉原>の文献が写真入で多数有ります。
華やかさの裏に暗い闇の世界が支配する<愛>のかけらも無い世界を
土台に、<吉原>が成立していた事を知ったらしい。
我輩は、後に紹介する<花白先生之墓>の碑背の碑文に、戸上先生が、
「江戸では、国史、雅歌、散楽を極め、後には、東山流と言う華道の創始者
と成り、習字にも長けて、生前は門下生が百人居た」
と記された様に、<吉原>は苦手だったね。
参勤交代では、各藩の美味しい料理、お酒が楽しみだったバイ!
養父の橘新十郎とその養子の橘糾夫に就いて
~六代目新十郎記す~
初代北川新十郎は松尾氏の娘と結婚、子である二代目は北川喜三太
(1850年10月4日没)。
その北川喜三太の「子」、北川新十郎は、福岡県山門郡外町で、天保十四年
三月二日(1843年3月2日)生。
安政三年十二月一日(1856年12月1日)入籍。
同年同日に、橘新十郎を相続、13歳の時に橘新十郎の誕生。
明治23年11月9日(1890年11月9日)、三池郡三池町で47歳で没。
ここで、初代との血族関係は一旦断絶する。
その後、明治31年(1898年)六月六日(初代より血族的に五代目西糾夫
が橘新十郎の養子と成る)迄、空家と成った。
これに就いて次章でご説明致します。
初代から六代目迄の血族関係の説明
~六代目新十郎記す~
その流れを、六代目は五代目が書き写した順光寺所蔵の
<宗門御改御帳><墓籍帳抄録><除籍謄本>(熊本市役所、柳川市役
所で入手)と、五代目が残した橘家の家系図、楠氏和田氏旗幕の紋を元に
調査、研究して、初代(江戸時代)から六代目(平成)迄の血縁関係をご説
明致します。
初代の三番目の弟は北川正豊四郎衛門、その子が北川熊蔵(後に姓を
西に改め)西熊蔵の子が、西矢十郎。
西矢十郎の子が西糾夫と続きます。
六代目は、西熊蔵の当時使った実印を柏で大切に保管、ここで、初代北川
新十郎の甥の孫が実証されます。
初代から数えて血族的に五代目の西糾夫は、1898年6月6日に、橘新十
郎を養父として、養子を相続し、西から橘に改名し、橘糾夫を名乗った。
(1978年2月9日没(順光寺)
その子が私め寛治で、血族的には初代から数えて六代目に当たります。
最近では遊び心に背を押され、<六代目北川新十郎>を名乗り、その
名刺や千社札を、最近行き付けの浅草のお店で作って、喜んで居ります
ト!ばい!
橘美智子嬢家系図の説明
<初代北川新十郎>の子は<北川喜三太>、その六番目の子は<北川六良>
<北川六良>は<北川秀海>と言う僧侶だった。
僧侶から一般人と成り、<橘秀實>と改姓した。
ここからは写真の橘 美智子嬢の証言
<橘秀海>には子供が居なかったので、<山崎巌>の弟の子<山崎四郎>の子
<山崎富士太>を養子にし<橘冨士太>とした。養母は<橘美佐枝>。
<橘富士太>の妻は<橘美智子>(昭和7年保加町生まれ)。
<橘美智子>は<諸橋虎夫>と<諸橋しげの>の子。
六代目北川新十郎橘寛治家系図の説明
<橘秀海>の直ぐ上の兄が<北川喜三太>五番目の子<北川新十郎>
(1843年3月2日生、1856年12月1日姓を<橘>に改め、<橘新十郎>
と成る。
1890年11月9日没、墓は三池)、、、、(注1)
初代北川新十郎の3番目の弟<北川正豊>の子<北川正脩>の子が
<北川熊蔵>(初代から数えて甥に当たる)<北川熊蔵>は後に姓を<西>
に改め<西熊蔵>と成る(1875年9月26日没)。
<西熊蔵>の子は<西矢十郎>の子は<西糾夫>(1884年4月17日生、
1898年6月6日<橘新十郎>の養子と成り、姓を<橘>と改め<橘糾夫>
と成る。柳川市除籍謄本より(注2)
<橘糾夫>は初代から数えて甥の孫、五代目に当たる (1978年2月9日没)。
(注1)と(注2)には約8年の空間が有り、この間<橘>は空家で有った。
<橘糾夫>の子が<橘寛治>。
文責 橘寛治 2009年10月23日
参考資料
橘系享年調べ
氏名 イミナ 享年
死亡年月日
和田太郎左衛門 橘正量 不明
北川喜兵衛 橘正純 寛永8年(1638)10月23日
北川四郎衛門 橘正喜 享保7年(1722)10月28日
北川宗次 橘成豊 天命元年(1781)8月13日
北川源次 橘正勝 文政8年(1825)12月1日
北川四郎衛門 橘正量 不明
西 熊蔵 橘正脩 43歳
明治8年(1873)9月27日
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