立花藩の流れと北川新十郎
戸次道雪(べっきどうせつ、1513年~1585年)は
豊後(大分県)大友氏の庶流、戸次(べっき)氏に生まれ、幼名八幡丸
元服して鑑連(あきつら)と称し、大友宗麟の重臣として活躍。
1565年 立花鑑載(あきとし)が主家の大友宗麟に謀反を起こし、
道雪が滅ぼす。
1572年 道雪は大友宗麟に立花城の城督を命じられる。
1575年 「道雪」は立花城に関わる一切を、男子が無かった為、
息女の誾千代(ぎんちよ)に譲る。7歳にて城主と成る。
1581年 高橋紹運の長男統虎(後の立花宗茂)を、誾千代の
婿に迎え家督を継がせる。
1598年 朝鮮出兵で加藤清正救援に成功。
1600年 立花宗茂は関ヶ原の戦いで西軍に着いた為熊本の
加藤清正に預けられる。
1601年 この戦いで戦功を挙げた田中吉政は、近江の国より
筑後の国33万石の藩主
(因みに立花宗茂は13万石だった)と成った。
1602年 近江の国で親しかった裕念和尚は、北川新十郎の先祖の
「北川源次」を先頭に門徒24家族を連れ、田中吉政を慕って
柳川に来た。彼はこれに感動し裕念和尚の為に
「順教寺」を作った。
1602年 宗茂の妻、誾千代が亡くなる。
1620年 田中吉政死後、立花宗茂は二代将軍秀忠の命により、
苦節20年柳川に返りさいた。その時、順教寺を
現在の「順光寺」と改める。
1638年 三代将軍家光の命を受け、総大将松平信綱と
「島原の乱」で原城攻略。
1642年 立花宗茂没。
1776年 北川新十郎生まれる~1849年没。
1826年 九代藩主立花鑑賢(あきかた)公は、初代藩主の
立花宗茂、宗茂正室誾千代、岳父戸次道雪、を祀った
三柱神社を建立。これを祝う為、初代北川新十郎は
「どろつくどん」を創造した。
1871年 廃藩置県
1872年 正月 柳川城消失。
文責 六代目北川新十郎
2017年5月3日
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