初代北川新十郎の
先祖から現在までの点と線
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どろつくどんと我輩、
   北川新十郎

近江の国神坂村~
 筑後の国柳川まで

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どろつくどんの謂われ

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田中吉政と祐念和尚

1548年 田中吉政が近江の国に生まれた。15歳で織田信長に仕え、
     5千石を賜り、後に、豊臣秀吉に仕えた。

1596年 11万石を領し、諱(死後に使う生前の名前、実名の敬称)を
     吉政と改名した。
     その頃より吉政は近江の国、神坂村にあった順教寺の祐念和尚
     とは互いに尊敬しあう位、親しくお付き合いをしていた。

1600年 関ヶ原の戦いで、石田三成を生捕りにし功を成した。

1601年 その功により、徳川家康より筑後の国33万石を賜り、柳に居住。
     因みに、それまでの国主だった立花宗茂は13万石だった。

1602年 祐念和尚は門徒24家族を連れ、はるばる近江の国、神坂村より
     吉政を訪ね柳川に来た。
     後の順光寺の記録によると、北川新十郎の先祖の<北川源次>
     名が先頭にあった。 
     正しく、初代・北川新十郎の先祖であり、彼が祐念和尚と柳川
     来て
いなかったら、<初代・北川新十郎>は柳川にいなかった
       とになる。
     これが最初のポイントでスタート地点。
     <祐念和尚>には、吉政は大感激をし、坂本小路に<順教寺>を
     開山し、祐念和尚を初代和尚とした。

1605年 イエズス会の記録によるとキリシタンに理解をもつ領主だった
       ある


1609年 江戸への参勤交代の途中、伏見で没。
     京都の黒谷に葬ったとあるが、柳川には、吉政だけが眠ってい
       る。

     立派な大きな真勝寺というお墓がある、
     然も地下室にある墓石は上から見ると、正しく十字架になって
       る

     これについての資料が、福岡の大名にあるカソリック教会に
       り、
上智大学のポルトガル語の教科書にもあるという。


順光寺所蔵の墓籍帳抄録より抜粋

1632年 没の北川喜兵衛~1850年没の、初代北川新十郎長男
     北川喜三太(後の二代目北川新十郎)迄の20柱の墓には、
    を使える人は5人いた。
       (*「諱」の説明・・・今では使わないが、人の死後使う称号。
     四代姓として、藤原、源平、橘が有る。)

     古い順に、1632年没の北川喜兵は橘正純、1703年没の
     北川四郎衛門は橘正喜、1781年没の北川宗次は橘正豊、
     北川源次(北川新十郎の父)は橘正勝、北川四郎兵衛は
     橘正量であった。


初代北川新十郎の活躍

1776年 外町で生まれた。

1787年 11歳で立花藩に仕えた。若き頃は参勤交代で3年おきに
     江戸に出向いていた。立花藩の上屋敷は浅草下谷の
     浅草寺近くにあった。そこで雅歌、猿楽、瓶花の東山流、
     習字を極めた。

1826年 1月<どろつくどん>造成に立ち上がる。<燃える外町衆>を
     連れ立ち、大阪では<天神祭り>、京都では<京都祇園絵>
     江戸では<神田囃子>に出向き、その見聞を広げた。

1826年 10月に無事最初のどろつくどんが生まれた。今に続く。

1848年 <初代北川新十郎>は、羽織袴に刀をさした姿を掛け軸にし、
     それに辞世の句を遺した。

      
    四つの時 折り得てすさぶ 花の枝に とめし心も 香しきかな

1849年 北川新十郎は100名の門弟中に看取られながら没。
     石碑を「花白先生の碑」とし順光寺に眠る。


橘の血統中絶~血統回復

1843年 3月2日、北川喜三太の三男、北川新十郎生まれる。

1856年 12月1日 13歳で「橘」と改姓

1890年 11月9日 47歳で大牟田の三池で沒血統中絶。
    (柳川市除籍謄本206-0668)

1884年 4月17日西矢十郎の二男西糾夫生まれる。
     祖父の北川熊蔵は、初代北川新十郎の二番目の実弟で有る
     北川正豊の子で有りその後、西熊蔵に改姓、西糾夫の実父
     西矢十郎は西熊蔵の二男


1898年 6月6日 西糾夫は橘糾夫を14歳で名乗る。血統復する。
    (柳川市除籍謄本208- 0831)

 

橘糾夫の活躍

1945年 三井物産大連支店長だった橘糾夫は、第二次世界大戦の敗戦を大
     連で迎えた。

1947年 3月27日に引揚者として、佐世保港に上陸、その時同時に、大連の
     お墓で眠っていた六柱の遺骨を持ち帰った。

1950年 曙町<順光寺>に六柱の納骨と、先祖の勉強のため、先代の住職
     さんを訪ねた。

1960年 11月6日、墓地整地の最中に、雑草の中に横たわっている
    <花白先生の碑>(素材は大理石、高さ4尺、幅2尺)を発見。
    <花白先生>は初代北川新十郎を後世に残す2番目のポイントと
        なる。

     12月7日<花白先生の碑>建碑終了。
     12月20日大連から持ち帰った6柱の納骨終了。

2007年 1月<どろつくどん保存会>の面々5人が始めて<花白先生の碑>
     を発見し、供養された。
     これが3番目のポイントとなる

2007年 10月、橘寛治、妻の恭子は、親友の宮原通義、三知子ご夫妻と
     奥様のお兄さんでいられる川崎先生に案内されながら、
     始めて<どろつくどん>を体験した。
     寛治は暫くの間、これにのぼせ続けた・・。

 

 

 

立花藩の流れと北川新十郎

 

戸次道雪(べっきどうせつ、1513年~1585年)は

豊後(大分県)大友氏の庶流、戸次(べっき)氏に生まれ、幼名八幡丸

元服して鑑連(あきつら)と称し、大友宗麟の重臣として活躍。

1565年 立花鑑載(あきとし)が主家の大友宗麟に謀反を起こし
      
道雪が滅ぼす。

1572年 道雪は大友宗麟に立花城の城督を命じられる。

1575年 「道雪」は立花城に関わる一切を、男子が無かった為
      
息女の誾千代(ぎんちよ)に譲る。7歳にて城主と成る。

1581年 高橋紹運の長男統虎(後の立花宗茂)を誾千代の
      婿に迎え家督を継がせる。

1598年 朝鮮出兵で加藤清正救援に成功。

1600年 立花宗茂は関ヶ原の戦いで西軍に着いた為熊本の
      加藤清正に預けられる。

1601年 この戦いで戦功を挙げた田中吉政は、近江の国より
      筑後の国33万石の藩主

         (因みに立花宗茂は13万石だった)と成った。

1602年 近江の国で親しかった裕念和尚は、北川新十郎の先祖の
     「北川源次」を先頭に門徒24家族を連れ、田中吉政を慕って
      柳川に来た。彼はこれに感動し裕念和尚の為に
     「順教寺」を作った。

1602年 宗茂の妻、誾千代が亡くなる。

1620年 田中吉政死後、立花宗茂は二代将軍秀忠の命により
      
苦節20年柳川に返りさいた。その時、順教寺を
      現在の「順光寺」と改める。

1638年 三代将軍家光の命を受け、総大将松平信綱と
     「島原の乱」で原城攻略。

1642年 立花宗茂没。

1776年 北川新十郎生まれる~1849年没。

1826年 九代藩主立花鑑賢(あきかた)公は初代藩主の
      立花宗茂、宗茂正室誾千代、岳父戸次道雪、を祀った
      三柱神社を建立。これを祝う為、初代北川新十郎は
     「どろつくどん」を創造した。

1871年 廃藩置県

1872年 正月 柳川城消失。

 

文責 六代目北川新十郎

                2017年5月3日

 

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